作品画像
篠崎正喜 2025年10月撮影
2025年10月撮影

私の絵本作品の一つ『父は空 母は大地』(パロル舎)は、中学教科書に掲載され、多くの学校で副読本として採用された。
東京国際映画祭、劇団四季をはじめ、演劇・映像・音楽関係の仕事を多く手がけた。
金属造形では、建設省企画による高さ5メートルの野外彫刻を制作した。
主な仕事は出版、デザイン、TVCM関連。
作品展の主なものとして、大阪にて、大日本印刷、読売新聞、JR西日本、三社共同後援による作品展を開催した。
また、約2年間にわたり雑誌への寄稿を行い、文科省主催のエッセイ・コンテストで最優秀賞を得た 。
主な受賞歴は、リキテックスビエンナーレ特別賞、アラカワアートフェステバル彫刻特賞など 多数。

81歳を迎えた焦りは常にあった。
それを意識させたのは緑内障の進行だ。
今は弱った視神経が、無数の氷の結晶のように視野を覆っている。さらに、脳血管の異常は片手を震えさせる。
しかし、深くは悩んではいない。
なぜなら、悩むことでは解決しないからだ。
視力低下を気にし始めた頃に、タイミングよく生成AIが一般化した。 「これは、視力低下を補ってくれるツールになるかもしれない。」
そう思って、私はすぐに飛びついた。
しかし、その完成度に満足していなかった。
そこでPhotoshopで、自分の手描きの絵と合成する手法を考えた。 そして2025年11月9日、不意に自分の感性に合致する作品が生まれた。

その時を今も鮮明に記憶している。
甘く官能的な昼顔のマゼンタに危うさを感じた。
「これは花ではない」と、作品は私を否定した。
もしかすると、心を安らかにする花など、描きたくなかったのかもしれない。
視覚に突き刺さるものを描くことで 「まだ、ここに生きている」と、 主張したかったのかもしれない。
昼顔の儚げな花弁は、その時、荒々しく私を否定した。
私を揺り動かし続けていたのは、 未消化のまま沈殿し続けた81年間の残渣だったかもしれない。

私は43歳まで、伝統工芸の彫金職人をしていた。
その年、何の準備もなく、突然に彫金職人から絵描きに転向した。 絵描きとしての経験はなかった。
だから、野垂れ死に覚悟の転向だった。
しかし、運命は良い方向に変化した。
次々と美術賞を受け、何とか絵描きとして生活できた。

絵を描く生活は楽しかった。
しかし、いつも違和感を抱えていた。
80歳を過ぎたあたりから、 弱っていく視覚に促されるように、本当に心を揺らすものを描き始めた。
それは 過ぎて行く時間への愛おしさではない。
ただひたすら、自分に抗うものを描こうと思った。

過去の作品群(約500点)

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